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機械の目と人間の正義:VARはサッカーを「公平」にしたのか?

2026年W杯ラウンド16、アルゼンチン対エジプト戦。エジプトの劇的なゴールは歓喜の波をスタジアムにもたらしたが、その数分後、冷酷な現実によって打ち砕かれた。VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)の介入により、ゴールから遠く離れた時間と空間で発生していたエジプト側のファウルが遡及的に摘発され、得点が取り消されたのである。結果としてアルゼンチンが逆転勝利を収めたこの試合は、「VARは本当に公平性を高めているのか?」という根源的な問いを世界に突きつけた。

2010年南アフリカW杯で起きたフランク・ランパードの「幻のゴール」は、人間の視覚的限界を露呈させ、ゴールライン・テクノロジーやVAR導入の決定的な契機となった。当時の我々は「機械による客観的真実の導入こそが誤審を根絶し、究極の公平性をもたらす」と信じていた。しかし、2026年の我々が直面しているのは、物理的な「誤審」の克服ではなく、テクノロジーがスポーツの存在論的構造をいかに変容させるかという新たな哲学的危機である。

第一の論点は、スポーツにおける判定の「認識論」である。コリンズは、審判を単なる「事実の記録者」ではなく、ゲームの流動性を維持し、競技を成立させるための「進行役」として位置づけた(2010, Collins)。VARは客観的真理を提供するとされるが、ヌランドゥが指摘するように、サッカーにおける判定の多くは「ボールがラインを割ったか」という物理的事実の確認にとどまらず、「その接触は意図的か、反則に値するか」という主観的解釈に依存している(2012, Nlandu)。機械的な映像の再生が常に「正しい答え」を導き出せるという前提は、スポーツの文脈を見落としたテクノロジー神話の誤謬である。

第二に、「時間の巻き戻し」がゲームの連続性に与える破壊的影響である。エジプト戦の最大の問題は、直前のプレーではなく、遥か手前の事象にまで因果関係を遡ったことだ。スーツの哲学によれば、スポーツとは「自発的に不必要な障害(ルール)を受け入れるルソリー・アティテュード」によって成立する連続的な活動である(1978, Suits)。ゲームは一つの流動的な物語であり、マクフィーが論じるように、ルールの適用は常にその瞬間の文脈に依存する(2004, McFee)。VARによる遡及的な介入は、この生きたゲームのフローを断ち切り、スタジアムの熱狂を、密室でモニターを見つめる監視官の事後的な承認プロセスへと矮小化してしまった。さらに、エドガーが指摘するように、映像技術によって細分化・スローモーション化されたスポーツは、現場のリアルな身体感覚から乖離した「メディア化された別の現実」を創出してしまう(2013, Edgar)。

第三の論点は、ルールの「形式主義」と「解釈主義」の対立である。ルールの文字通りの適用に固執すべきか、それともスポーツの精神に照らして解釈すべきか。ラッセルは、ルールの字面を盲信することの危険性を説き、競技の卓越性を引き出すための解釈的アプローチの重要性を主張した(1999, Russell)。ディクソンのスポーツ論に従えば、試合の目的は「どちらのチームがより卓越したアスリートであるかを決定すること」にある(2003, Dixon)。アルゼンチンの勝利は、ピッチ上での卓越性の証明であったのか、それとも微視的なファウルを暴き出す監視カメラの網の目による恩恵であったのか。

もちろん、ライアルが主張するように、重大な不正義を是正するためのテクノロジーの利用には正当な倫理的根拠がある(2012, Ryall)。しかし、あらゆるミクロな事象にまで「完璧な正義」を適用しようとする試みは、かえってスポーツを窮屈にする。ロイスは、テクノロジーの過剰な介入が、競技場における人間の審判の権威と実践的知恵(フロネーシス)を失墜させると警告している(2012, Royce)。

さらに、スポーツ哲学者のクレッチマーは、スポーツの魅力がその「不確実性」と「不完全性」にこそあると論じている(2005, Kretchmar)。人間の審判による認識の限界や、それに伴う理不尽さもまた、アスリートが乗り越えるべき試練の一部であった。ロランドが提唱する「フェアプレーの道徳規範システム」において、公平性とは単に機械的に測定された結果の均等ではなく、不完全な人間同士がルールの精神を共有し、互いを尊重する態度の中に宿るものである(2002, Loland)。

2010年の「誤審」は、人間の物理的な限界がもたらした悲劇であった。対して2026年のアルゼンチン対エジプト戦の事象は、我々が「絶対的な公平性」という幻影を追い求めた結果、スポーツの有機的な魂を機械的なプロトコルへと解体してしまった代償である。VARはサッカーの不正義を根絶したかもしれない。しかし、同時にスポーツが持つ豊かなドラマと、人間の不完全性が織りなす「遊び」の精神を、少しずつ奪っているのではないだろうか。我々は今一度、スポーツにおける「正義」とは何かを再考すべき岐路に立たされている。

参考文献

Collins, H. (2010). The philosophy of umpiring and the introduction of decision-aid technology. Journal of the Philosophy of Sport, 37(2), 135-146.
Dixon, N. (2003). On winning and athletic superiority. Journal of the Philosophy of Sport, 30(1), 10-26.
Edgar, A. (2013). The aesthetics of the televised football match. Sport, Ethics and Philosophy, 7(1), 80-99.
Kretchmar, R. S. (2005). Practical philosophy of sport and physical activity. Human Kinetics.
Loland, S. (2002). Fair play in sport: A moral norm system. Routledge.
McFee, G. (2004). Sport, rules and values: Philosophical investigations into the nature of sport. Routledge.
Nlandu, T. (2012). The fallacies of the assumptions behind the arguments for goal-line technology in soccer. Sport, Ethics and Philosophy, 6(4), 451-466.
Royce, R. (2012). Refereeing and technology: Reflections on Collins' philosophy of umpiring. Journal of the Philosophy of Sport, 39(1), 53-65.
Russell, J. S. (1999). Are rules all there is to sports games? Journal of the Philosophy of Sport, 26(1), 27-49.
Ryall, E. (2012). Are there any good arguments against goal-line technology? Sport, Ethics and Philosophy, 6(4), 439-450.
Suits, B. (1978). The Grasshopper: Games, life and utopia. University of Toronto Press.

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